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うさかめ英国至宝部

俳優ベネディクト・カンバーバッチさんに関するあんなことやこんなことを綴るブログです

ゴッホ~真実の手紙 ①

―『ゴッホ~真実の手紙』

8/30までGyaoで無料放送中の『ゴッホ~真実の手紙』。

 

BBCが2010年に製作し、カンバーバッチ氏がゴッホを演じております。

 

ゴッホについて、私は飛び飛びにしか知らなかったんだなぁ、と。

もちろん、この番組で完全に網羅している訳ではないのですが。。。

 

番組を見終ってから、東郷青児美術館のホームページを見ていたら

ゴッホの略歴が載っておりました。

これが結構面白くって。。。

面白い、というと失礼なんですが。

淡々とした文章がゆえに、なんだか面白い。

 

 

番組も興味深かったので、書き起こしてみました。

文末や、語順を少々読みやすいように変えています。

 

途中途中で、東郷青児美術館のホームページに載っている略歴も差し挟んでいこうと

思います。オレンジ色の文字部分が、その略歴です。

 

 

ちなみに、私がGyaoで見たのは日本語吹替版。

吹替え、といってもボイスオーバーなので少々、ほんの少々、たまーに

カンバーバッチ氏の声が聞こえます。

 

 

下にロシア語?字幕が入っていますが、こちらに英語バージョンが

ありました。

本編 約80分を、日本バージョンでは約45分に編集しているようです。

 

 

英語字幕入りのものもありました。ただし、6分割されている模様?

すみません、全部を見て確認していないのですが参考までにペタリ。

 

************************************************************

 

 

ビンセント・バン・ゴッホ

1853年 3月30日、オランダ南部のズンデルトに、牧師の子として生まれる

 

 

大胆な色彩と独特なタッチで知られる天才画家。

 

「私の筆遣いは、まるでバイオリンを弾く弓のようなんだ」

 

ゴッホは、とても繊細な心を持った人物だった。

 

「私は精神的に追い詰められているのかもしれない。

 どうすればいいか分からない」

 

彼は生涯にわたり多くの手紙を遺しており、その殆どは弟テオに宛てたもの。

 

テオはゴッホの弟であり、親友であり、そして経済的な支援者でもあった。

1857年(4歳) 弟テオ生まれる。テオはその後画商となり、フィンセントを

生涯にわたり、

経済的かつ精神的に支える。

 

これは、ゴッホや弟テオの書いた手紙をもとに作られた真実の物語。

 

ゴッホにまつわるエピソードで最も有名なのが、自分の耳を切り落としてしまった

ことだろう。

 

1888年12月23日。

友人と口論になり頭に血が上ったゴッホは、なんと自らの左耳の一部を

カミソリで切り取った。

傷ついた彼は病院へ運ばれる。

 

 

「親愛なる我が弟テオへ

 私は鍵のかかった病室に、もう何日も閉じ込められている。

 ここは酷い場所だが、幸い耳の傷口はふさがりつつある。

 しかし困ったことに、まったく眠れないんだ。

 そのせいで、私はすっかり弱ってしまった」

 

「愛する兄さんへ

 兄さんが眠れない日々を過ごしていると知って、僕も心が痛むよ。

 どんな時でも僕は兄さんを愛している。弟のテオより」

 

 

固い絆で結ばれたゴッホとテオ。

2人のこうした手紙のやりとりは、一体いつから始まったのか?

 

子供の頃、寄宿学校で絵画の基礎を学んだゴッホは1869年16歳の時に

美術商の見習いとして働き始めた。

1869年(16歳) 美術商グーピル商会ハーグ支店の店員になり、多くの絵画に親しむ。

 

その3年後、弟のテオもゴッホと同じ仕事を選ぶ。

2人の手紙のやりとりが始まったのは、この頃のこと。

ゴッホが19歳、テオが15歳のとき。

 

「僕たち2人が同じ職業に就いているなんて嬉しいことだ

 これからも頻繁に手紙を交換しよう」

 

「実は1つ提案があるんだ。2人の間では隠し事をしないと約束してくれないか。

 お互いを信頼して、お互いの支えになろう。

 これからの人生で2人の絆がさらに深まりますように」

 

美術商の仕事を始めて4年が経った頃、ゴッホはロンドンへ転勤に。

1873年(20歳) ロンドン支店に栄転。

彼はそこで ふと目にした新聞の中に白黒の版画を見つける。

その美しさに目を奪われたゴッホは、すっかり版画の虜になってしまった。

 

「このような版画は画家たちにとって、お手本にしたくなるような存在だ。

 見ているだけでワクワクする。イギリスの画家はとても勉強熱心だと思う。

 彼らこそ画家の原点だと言えるだろう」

 

この作品は当時ゴッホが集めていた版画のコレクションの中の1つ。

貧しい労働者をテーマにした、こうした版画はゴッホの生き方に大きな影響を

与えた。

 

「この街には多くの労働者がいる。そして彼らは神を心から信じる敬虔な

 クリスチャンだ。街の教会では牧師が聖書の教えを伝え、人々は熱心に

 牧師の話を聞いている」

 

 

この版画を見てゴッホは自分の父親のことを思い出した。

彼の父は牧師だったのだ。

そしてゴッホは牧師になることを決意。

しかし聖書を学ぶことに没頭するあまり仕事がおろそかになり、職を失ってしまう。

1874年(21歳) 下宿の娘に求婚するが断られる。聖書を読むことに没頭する。

仕事を辞めたゴッホは本格的に牧師への道を目指す。

1876年(23歳) 店を解雇され、教師になるも年末には辞める。

 

 

「私は今、学校の中にいる。窓から見た光景を描いてみた」

 

ゴッホはロンドンの日曜学校で子供たちに勉強を教え始め、そして、初めて人々の前で

聖書の教えを語った。

 

 

「テオ、聞いてくれ。この前の日曜日、初めて教会で話をしたんだ。

 みんなの前に立った時、まるで暗い地下から陽のあたる場所に出てきたような

 感じがした。あれは本当に素晴らしい体験だったよ」

 

ゴッホは本格的に牧師を目指すため、1876年オランダに戻る。

しかし、たった1年で勉強につまずき牧師になることを断念。

1877年(24歳) ドルトレヒトで書店店員を経た後、牧師を志す。

残された道はキリスト教の教えを広める活動をする”伝道師”になることだけ。

伝道師の道を歩み始めたゴッホはベルギーの炭鉱に派遣される。

1878年(25歳) ブリュッセルの伝道師養成学校で実習。

ベルギーの炭坑町ボリナージュで熱心に伝道し、あい間にスケッチをする。

 

 

「ここではカゴのようなものに乗って作業する場所まで下りていく。

 ここで働く人々は、それに慣れているようだが私はカゴに乗って降りることが怖い」

 

ゴッホは炭鉱で働く人々の厳しい労働環境に心を痛め、病人や怪我人の世話を

献身的に行った。

しかし、半年たっても伝道師になることはできず彼は志半ばで諦めることになった。

1879年(26歳) 献身が常道を逸しているとして伝道師を解任される。

 

「人はよくこんなことを言う。

 あれがキッカケで人生が上手くいかなくなった、とか。

 あの時から下り坂になった、とか。まさにそんな感じだ」

 

弟のテオは手紙と共にゴッホが送ってきたスケッチを見て、兄のただならぬ才能を

直感。

そして画家になるようゴッホに勧める。

1880年(27歳) 画家になる決心をする。

 

 

「これからは生まれ変わろう。今まで私は何をやっても続かなかった。

 でもこれからは、どんなに辛くても もう逃げたりしない。

 この世に生まれ、これまで生きてこられたことに感謝し、その気持ちを絵画

 という形で残さなければ。それが私の義務であり、責任なんだ」

美術商の仕事を辞めてから4年。

様々な困難を乗り越えゴッホはついに天職を見つけた。

 

その後の手紙から、彼がどれほど作品制作に没頭していたかが分かる。

 

「デッサンは全ての基礎となるものだ。ミレーのような巨匠から人物画の

 デッサンを学ぼう。

 彼はこう言っている『美術に身も心も捧げよ』」

「ミレーの『種まく人』を私は もう5回も描いている。作品に愛を込めることが

 出来ればきっと人々に気に入ってもらえるだろう」

 

 

このように作品に愛を捧げたゴッホだったが、人生においては愛を得ることが

出来なかった。

 

あるとき、ゴッホは両親の家で1人の未亡人と出会う。

ゴッホの従姉にあたる女性で、ゴッホは彼女に恋をする。

 

「恋に落ちた瞬間から、私には分かっていた。

 すべてを投げ出し身も心も完全に捧げなければ、チャンスはないと思う」

 

 

残念ながら、この恋は片思いだった。

ゴッホは家族から彼女に会うことを禁じられるも、それでもゴッホは彼女に

手紙を送り続けた。

 

「我慢できずに彼女に会いにいったが、おじに『しつこいぞ』と怒鳴られた。

 私はランプの灯に手をかざし、この火の熱さに耐えていられる間だけでも

 いいから会わせて欲しいと頼んだ。しかし結局会うことは叶わなかった」

 

ゴッホの恋は父親の怒りをかった。

 

「父さんに、お前は一家の恥だと言われ大喧嘩になった。

 父さんに出て行けと言われ頭にきた僕は、こう言い返してやったんだ。

 『父さんの信じる宗教だって、くだらないじゃないか』

 『もう僕はキリスト教には関わらない』ってね」

 

全てを失ったゴッホは弟テオを頼った。

 

「テオ、もうお前に頼むしかない。お前の負担にならない範囲で時々金を送ってくれ。

 その代わり私は作品を送るよ。そうすれば、絵を描いて稼いだと考えることが

 出来るから」

 

弟テオの返事は

「兄さんの絵が売れるまで、出来る限りの援助はしよう。

 でも父さんに酷いことを言ったのは赦せない。頼むから父さんと仲直りしてくれ」

 

 

父親と喧嘩して家を飛び出したゴッホは、オランダ南西部の町・ハーグに小さな

アトリエを構える。

 

1881年(28歳) エッテンの家に帰る。従姉に求婚を拒まれ、ハーグへ。

ハーグは大都市で、ゴッホはここで近代的な街並みの風景画を描いた。

 

 

「そんなある日、私は妊娠中の女性と出会った。

 お腹の中にいる子の父親に捨てられた女性だ。

 冬の町を彷徨い、食べ物を手に入れようとしていた。

 私は彼女にモデルを頼み、そして一緒に暮らすことにした」

 

シーンという愛称で呼ばれる その女性はゴッホより年上で、娼婦だった。

 

「私はシーンに部屋と食べ物を与えた。そうすることで彼女とお腹の中の子を

 飢えや寒さから守っているんだ。

 彼女は痩せていて顔色も悪いが、私にとっては美しい。

 彼女をモデルにデッサンを描いた。タイトルは”悲しみ”。」

 

「私は自分の作品によって人々を感動させたいんだ。

 これは、そんな絵が描けるようになるための第一歩だと思うんだ」

 

「このデッサンは砂地に生えた木の根。風景画も人物画と同じように感情を込めて

 描きたいと私は思っている。このような木々にも表情があり、魂があるんだ」

 

 

シーンとの関係は、従姉に恋をしたとき以上に家族の怒りをかった。

今回ばかりは弟のテオも腹を立て、ゴッホへお金を送るのを止めてしまう。

その結果、ゴッホはシーンを養うことが出来なくなってしまい2人の生活は

終わりを告げる。

 

「彼女のことは忘れない」

 

ゴッホは都会を離れ、オランダの農村地帯に移り住む。

1882年(29歳) オランダ各地に移り住み、制作を続ける。

農民生活や肖像画、風景など、方向性が定まってくる。

 

 続きは、こちらです。

 

 

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