うさかめ英国至宝部

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俳優ベネディクト・カンバーバッチさんに関するあんなことやこんなことだけじゃなく様々にとっちらかったことを綴るブログです

ゴッホ~真実の手紙 ③

BBCが2010年に製作した『ゴッホ~真実の手紙』。
その日本語版について書いてまして、今回はその3回目です。


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初めのうち2人の仲はうまくいっていたが、ゴッホは再び頻繁に酒を飲むようになり
ゴーギャンとの関係はギクシャクしはじめる。


ゴッホの行動は、どんどんおかしくなっている。どうすればいいんだろう。
 彼と私は殆ど目を合わせない。特に絵を描いているときは。
 彼は私の絵を気に入っているにもかかわらず、描いている最中にアレコレ
 文句をつける。
 このまま一緒に暮らしていたら、いつかトラブルが起きるだろう」

ゴーギャンの予感は的中。

数日後、2人は激しい口論になる。

「もう我慢できない。ゴッホと言い争いになり、私は家を飛び出した。
 1人になって頭を冷やしたかったんだ。
 すると、後ろから聞きなれた足音が聞こえてきた。
 振り向くとゴッホが私の方に向かって走ってくるところだった。
 彼はカミソリを手にしていた」


ゴッホゴーギャンを傷つけることはなかった。
しかし、その代わりに自分の耳の一部を切り落とした。

「私だって好きでやった訳じゃない。
 一度こうなってしまうと、もうどうしようもないんだ」

11-12月、《ひまわり》を描く。
12月、精神病の発作を起こして自分の耳を切断し、入院。


この印象的な自画像は、ゴッホが入院中に描いたもの。
ゴッホは5か月入院したあと退院して、1度は自宅へ戻る。
1889年(36歳) 1月、退院。制作再開。
しかし不安定な精神状態を自覚し、弟に「また入院したい」と訴える。


「院長様
 兄の入院を許可していただけないでしょうか。
 そして入院しても兄が絵を描きたいと言ったら、どうか自由に絵を描かせて
 いただきたいのです。
 また、食事のときワインを少しつけてもらえたら嬉しいです」

1889年5月、再び入院することになったゴッホ

「ここの医者たちは私が耳を切り取ったことを、発作のせいだと考えているようだ。
 あれは発作なんだろうか。
 奇妙なことに、あれ以来私の心からすっかり希望が消えてしまった。
 私は心が病んでいることを認めようと思う」

5月、サン=レミの精神病院に移る。たびたび発作に苦しむ。

心の病を自覚したゴッホは、何週間もの間 作品づくりに取り組むことが出来なかった。
しかし次第に絵に対する情熱が湧き始め、再び筆をとることになる。


「弟よ、カンバスや絵の具、筆、タバコとチョコレートを送ってくれてありがとう。
 本当に嬉しかった。描きたくて仕方なかったから」


「ここ数日は、近所に絵を描きに出かけている。ここは空も太陽もすばらしく美しい。
 これなら、どんどん筆が進む。私の筆づかいは、まるでバイオリンを弾く弓のようだ。
 ただ体調を崩したので、作業がはかどらなくなってしまった」


「最近の兄さんの絵には、これまでの絵には見られなかった色が使われていて
 とても素晴らしいものになっている。
 でも最近の作品を見ていると、兄さんが追い詰められているんじゃないかと
 心配になってしまうんだ。
 なぜなら兄さんがギリギリまで自分を追い込んで作品を創りだしているように
 感じられるから」


「新しい絵を送るよ。星空の絵だ」

「これは実際に夜 描いたものだ。大地は藤色。街は青と紫。
 手前には恋人たちを小さく描いたんだ」



「私は精神的に追い詰められているのかもしれないが、自分ではどうすることも
 できない」


入院して一年以上がたった頃、ゴッホは「そろそろ退院したい」と弟への手紙に綴る。

「私には、ここの医者たちを批判する資格はないが、ここでの生活は お世辞にも
 快適とは言えない。だから本当にここを出たいんだよ。
 半年ぐらい前にも、この病院を出たいと言ったことがあっただろう。
 医者がいるのに発作が起きたんだ。

 作品づくりの途中だったから、死を選ぶことはなかったが、そうでなければこの世を
 去っていただろう。
 弟よ、2週間、できれば1週間がいい。1週間で私を退院させてくれないか。頼む」


「彼は入院中ほぼ安定した状態だったが、何度か発作を起こした。
 そして1度発作を起こすと、しばらくの間その症状が続いてしまうのだ。


 彼は何度も自殺を図った。絵の具を飲み込んだり、ランプの燃料に使う灯油を
飲んでしまったり。
 しかし1か月ほどすると症状は治まり、精神状態が安定してきて情熱的に絵を
 描き始めた。

 今日、彼は退院したいと言い出した。ここを出てフランスの北部に住みたいと
 言っている」


1890年(37歳) 5月、パリ郊外のオーヴェール=シュル=オワーズに転居。

1890年5月、精神科医・ポール・ガシェの診察を受けるためフランス北部へ移り住む。

ゴッホは知り合いの家の屋根裏に部屋を借りた。

「ここにやってきて、だいぶ気が紛れたよ。
 この間はガシェ医師の肖像画を描いたんだ。彼の顔の色ときたら、まるで太陽にジリジリと
 焼かれた煉瓦のようだ。
 赤い髪、白い帽子、青い背景。彼はとても神経質な人だ」

「でも私の自画像に似ている。彼は私の助けになってくれるのだろうか」


ゴッホは医師であるガシェと良い友人になった。
ガシェは、よく話を聞いてくれた。しかし、それでもまだゴッホは孤独だった。

「病気になってからというもの、私はずっと孤独を感じているんだ。
 いっそのこと死んでしまおうかと考えることもあるが、そんな恐ろしい考えは
 直ぐに打ち消しているよ。

 絵を描いている時だけが生きていることを実感できるのだ。
 私は負け犬だ。それが私が受け入れるべき運命。
 それはもう変わらない。

 弟よ、私はお金のことでお前を困らせているのではないかと、ずっと気にして
 いたんだよ。伝えたいことは沢山あるんだが、すべての望みが絶たれた今
 そのことを書いても意味がないように思うんだ。

 せめて今手がけている作品について話そう。
 荒れた空の下の小麦畑を描いた素晴らしい絵だ。
 私はこの絵で悲しみと孤独感を表現したいと思っている。

 身体には、くれぐれも気を付けて。   お前を愛する兄より」

(ちなみに、番組では『カラスのいる麦畑』が最後の作品とは明言して
おりませんでした。)

これがゴッホが弟に宛てた最後の手紙となった。
この手紙を書いた4日後、ゴッホは銃で胸を撃ち自殺を図った。

すぐに命を落とさなかった彼は、自力で屋根裏部屋へと上り、その2日後、
彼は37歳で この世を去ることになる。


「兄は、もう楽になりたいと言い、永遠に旅立ってしまった。
 皮肉なことに人々は兄が居なくなった今になって彼の才能を称えている」


ゴッホのことを本当に理解していたのは、弟のテオただ1人だった。

そのテオもゴッホの死から半年後、後を追うように33歳でこの世を去った。


ゴッホとテオは同じ墓地に並んで葬られた。
墓を覆うツタが兄弟をしっかりとむすびつけているように見える。

ゴッホそして弟のテオ。
彼ら2人の絆は、今もなおこうして固く結ばれている。

7月27日、小銃で自分を撃ち、2日後に死去。
1891年 弟テオ、死去。
1892年 アムステルダムでテオの未亡人の世話によりゴッホ展が開催される。
1901年 ベルナイム・ジュヌ画廊で回顧展。ヴラマンクらが感銘を受ける。
1905年 アムステルダム国立美術館で大回顧展が開催される。



ゴッホの作品を制作順に見られるページが、こちらにありました

毎度のことながら、Wikipediaによりますと

>約10年の間に、油絵約860点、水彩画約150点、素描約1030点、版画約10点を残し、
>手紙に描き込んだスケッチ約130点も合わせると、2100以上の絵を残した


平均1.7日に1作品産み出すペース。
油絵のイメージが強いのですが、水彩画の作品もあるのですね。。。


それにしても、なんという弟テオの愛情の深さ。

いくら兄とはいえ、いくら才能豊かな人とはいえ、正直やっていることが一途すぎて。
一途というか、極端と言うか......
根底にあるのは、困っている人を助けたいという正義感、優しい想いなんだけれども
自分自身が、どうゆう立場なのか、ということを判断する部分は棚上げと言うか。

もし従姉や他の人が彼の愛を受け入れていたら、ゴッホの人生は変わったのか。
もしかしたら、彼は生活のために絵を描いて生計を立てることを諦めたかもしれないし。

でもでも、あの気質は変わらないような気もするから、テオがもっと仕送りの額を
増やさなきゃいけない事態になっていたかもしれないし......

いまさら、もし、なんて120年ぐらい前のことを考えても仕方ないのですが。


カンバーバッチ氏の憂いを帯びた顔、絶望の中でみせる笑顔、泣き顔、体育座わり
などなど魅せられるシーンが沢山ありました。
衣装も色々ありましたし。むふふ。

この番組を見る機会はないと諦めきっていたので、思いがけない夏の思い出と
なりました。